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【当たり前すぎて気づかない】言葉をつかう目的はなんだ?

私たちは、毎日当たり前のように「言葉」を使っています。

「おはよう」から始まって、「ありがとう」「ごめんね」「おつかれさま」「じゃあね」まで、日々の暮らしの中で自然と口にしている言葉たち。

だけど、ふと思いました。

「私たちは、なんのために言葉を使っているんだろう?」と。

今日はそんな「当たり前すぎて見えにくいこと」を、ちょっとゆるっと考えてみたいと思います。

目次

私たちが言葉を使う目的って、なんだろう?

言葉って、なんのためにあるのでしょう?

「伝えるため」「コミュニケーションのため」

それももちろん正解だと思います。

でも、もうちょっとだけ深く掘ってみると、いくつかの“目的”が見えてきます。

たとえば──

気持ちを伝えるため

 「うれしいな」「さみしいよ」「ありがとう」って、言葉にするとなんだかホッとしますよね。

自分の心の中を、相手と少しだけ共有できたような気がして。

相手を理解するため

 「どう思ってる?」「それってどんな意味?」と聞くとき、私たちは相手の世界を少し覗こうとしています。言葉って、橋のようなものかもしれません。

自分自身を整理するため

 誰かに話すつもりじゃなくても、日記を書いたり、独り言をつぶやいたりすることで、頭の中がスッキリすることってありますよね。言葉は、自分の“内なる思考”と向き合う道具でもあるのです。

…こうして見ると、「伝えるため」だけじゃなく、言葉は自分を知るため、そして他人とつながるためのものという見方もできるかもしれません。

コミュニケーションってなんだろう?

では、「言葉の目的=コミュニケーション」だとして。

じゃあその「コミュニケーション」って、なんでしょう?

単に「話す・聞く」というやりとりのことでしょうか。

意見や考えを「分かち合おうとする姿勢」のことをいうのでしょうか。

言葉が正しく伝わらなくても、「伝えたい」「理解したい」という気持ちがそこにあれば、たとえうまく言えなくても心が届くことってありますよね。

逆に、どんなに上手に言葉を使っても、心がそこにないと「通じた感じがしない」気がするのも不思議です。

コミュニケーションって、言葉そのものよりも“気持ちのやりとり”に重きがあるのかもしれません。

言葉を話すときに、ちょっとだけ気をつけたいこと

言葉はとても便利で、強力な道具。だからこそ、使うときには少しだけ「心配り」が必要かもしれません。

たとえば──

「自分の常識」は「相手の常識」じゃないかもしれない

 自分では当たり前だと思っていた言葉が、相手にはまったく違う意味で受け取られることもあります。「アレ」や「コレ」「そっち」など、曖昧な言葉は注意が必要ですね。

感情の乗った言葉は、想像以上に響く

 怒ったときやイライラしているとき、つい強い言葉を使ってしまうことがあります。

でもその一言で、相手が深く傷つくことも。

発する前に「これって本当に伝えたいことかな?」と、ひと呼吸おけるといいですよね。

沈黙もまた、立派なコミュニケーション

 「何か言わなきゃ」と焦る必要はありません。ときには黙ってうなずくだけでも、相手の気持ちに寄り添えることがあります。

黙って何も発さず、相手が話す言葉を待つこともコミュニケーションの一つといえます。

話さないからこそ伝わる“優しさ”もあるかもしれません。

言葉って、意外とやさしくて深いもの

言葉は、毎日当たり前のように使っているけれど、実はとても繊細で、やさしい力を持っていそうですね。

伝えること。分かち合うこと。自分を整えること。

どれも「言葉」のちから。

だけどその力は、道具のように使いこなすものじゃなくて、お互いを思いやる心があってこそ、やさしく届くものなのかもしれません。

今日も何気なく交わした「おはよう」や「ありがとう」に、そんな想いが込められていたら…

ちょっと世界があたたかく感じられる気がします。

最後に

このブログでは

「良く考えてみたら〇〇じゃないかな?」

という内容の記事を書いています。

今回は「当たり前すぎて意外と気づかない、言葉を使う目的」について、ゆるっと考えてみました。

ゆるっとふわっとなんとなく考えてみたという不定期で気まぐれな思索日記です。

内容が気に入っていただけたらまたお気軽にお立ち寄りください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ではまた、次の記事でお会いしましょう。

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